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Flashback 2009

Flashback 2009

People Make The World Go Around

―〈TAICOCLUB'09 KAWASAKI 〉の思い出―

文:メタル
Nov 30,2009 UP
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 2009年も様々な場所でいろいろな趣向のレイヴがたくさんあった。何百という中小のレイヴが濫立し本当にサード・サマー・オブ・ラヴといっても過言ではない。そこには、マスコミに取り上げられた"悪しき若者文化"を象徴するようなものから、DIYの精神と音楽への純粋な欲求から生まれた素晴らしい試みまで含まれる。いろいろ行きたかったが、日々の労働やなんやらで、結局僕がそのなかで唯一行けたのが9月19日〈タイコクラブ川崎〉だった。

 今回〈タイコクラブ〉が選んだ会場は川崎の東扇島東公園、そのすぐ近くで、僕は1日12時間以上の肉体労働を強いられている。毎日、目の前に与えられた仕事を黙々とこなす。あるのはただ労働のみ。島には流通系の倉庫と食品会社の冷蔵庫それ以外にはコンビニがふたつあるだけ。普段は日雇いの派遣労働者や主に中国人を中心とした出稼ぎの外国人、愛国精神にあふれた運送会社の兄貴たち、保守的な体育会系の人間が多く、僕のような人間には少々息苦しい場所だ。付近には石油化学工場があるため、風向きによっては島全体がナイロンの焼けた匂いで覆い尽くされる。僕はそれを肺に送り込みながら通勤し、そして帰路に着く。お世辞にもいい所だとは言えない。

 2009年の〈タイコクラブ〉は、そんな埋立地で開かれるレイヴ・パーティだ。たぶん、ここに遊びに来る連中のほとんどが、幻想としてのゲトーを一時的に消費するだけなのかもしれない。しかし、僕にとってこの島はリアルだ。生活を支える、労働の場だ。工場萌え? くそったれ。とってつけたようなデトロイト勢のブッキングには素直に喜べず、心境は複雑だった。ただ都心から1時間足らずでアクセスできるこの会場は、連休が取れない僕のような人間でも容易く足を運べる場所だった。なによりも場所の近さが僕の欲求に答えてくれたのだ。

 〈メタモルフォーゼ〉がオリジナル世代たちの築いたパーティだとしたら、〈タイコクラブ〉は僕らの世代によるパーティと言えるかもしれない。僕らは、あらかじめレイヴという文化が存在して、それを選択することができて、ダンス・ミュージックを聴いて育った世代だ。「自分たちが行きたいパーティをやっていたら次第に大きくなっていった」とオーガナイザーのひとりの森田さんは語っていたが、シンプルなコンセプトと現場目線での人選のもと、〈タイコクラブ〉は着実な支持を集めている。地域と連携を取りながら、さまざまな現場で見てきたものを、自分たちに合ったやり方に上手く当てはめているようだ。商業ベースのパーティが増えているなか、〈タイコクラブ〉のチケット代はそれほど高くない。今回のパーティでも20代半ばの、比較的若い、純粋に音楽を楽しみに来た客層を中心に数千人を集めていた。

 原田知世はムームを従えマイペースに自分の音楽を楽しんでいるようだった。アイドルからアーティストへここまできれいに転身した例も少ないだろう。もし"のりピー"のまわりに金ではなくて音楽好きの友人がたくさんいて、彼女がザ・KLFの『Chill Out』やフェネスの『Endless summer』を聴いていたら話は違っていたかもしれない。

 ムームのライヴも素晴らしかった。会場全体が独特の温かい空気に包まれた。声高にフェスでの連帯を強調するロック・バンドとは趣は違う。ぎこちない演奏ながら、音響を通じてじわじわと観客を引き込んでいった。"Green Grass Of Tunnel"――いい響きではないか。

 00年代以降の代表的なライブ・バンドとして彼らはもっと評価されてもよいのでは。相対性理論のブッキングは若い世代に訴えかけるのには充分だったかもしれない。が、正直僕にはそのライヴは酷いものに思えた。とてもこうした野外でグルーヴが出せるようなバンドだとは思えなかった。メンバーのひとりが病欠だったためかもしれない。ただ、どうしても足を止めて聴いてしまう彼らの音楽は、今回のこの会場にも合っていなかったようにも思う。

 4チャンネルのシステムによるモノレイクのライヴは強烈なものだった。グルーヴはより柔軟になって、ダブステップまでも吸収して、さらなる展開を遂げていた。やっぱりこういった会場にはなによりもぶっといベースが必要だ。自分の体に染み付いているだけかもしれないが。

 僕にとってのベスト・アクトはカール・クレイグだった。"Movement 3"と同時に彼のブースから海に向かって発せられたレーザーは本当に美しかった。当初は、地元ってことでディスってやろうと思っていたが、新旧のクラシックを織り交ぜながら力強いDJには説得力があった。やっぱりテクノはSF的なヴィジョンが似合う。僕もいつしか自分のルサンチマンなど忘れて、すっかりレイヴを楽しんでいた。まあ、そんなもんだ。
 もちろん、朝方のセオ・パリッシュとジェームス・ホールデンのダンス対決もパーティ・アニマルにはたまらないものであった。

 会場では思いがけないほどたくさんの友人に会った。普段良く会う仲間からクラブやレイヴ会場でしか話したことがない連中まで、たくさんの友人や知り合い。こんな場所でこんなレイヴが開かれたおかげだ。

 一緒に〈NYE〉というパーティをオーガナイズしている弓J、〈ポテ恋ディスコ〉のクロ君、週末はお店で働いているから、パーティにはめったに顔を出さないショウ君、カール・クレイグの時間にはケンゴさん、そしてかつて〈YELLOW〉などでよく見かけた名前も知らない彼らにも。そのなかのひとりのリョウ君は横須賀で〈SHELL〉という名のDJバーをはじめたという。彼とは昔、〈メタモルフォーゼ〉で知り合った。大きなパーティでよく見る"アイツ"だった。彼のオーガナイズするパーティの噂は聞いていたが、遂に店を構えるまでになった。同じ時代に同じフロアで育った彼の話しは、まるで自分のことのように嬉しかった。久々の再会がたくさんあった。僕らのまわりは、かつてはあった集合の場所――つまりみんなで遊ぶ場所を失っていたのだろう。

 この時代、自分らが楽しめる場所を確保することは容易ではない。好きな音楽を大きな音で聴きたいというそれだけの欲望だが、それはそう簡単に許されるものではない。狭い国だ、仕方がない。そう考えると、今回〈タイコクラブ〉がみつけた川崎という場所には意外にも可能性があるかもしれない。僕自身も向ヶ丘遊園という場所でパーティをはじめた。これからだ。うまくやることは難しいが、やめるつもりはない。

 かつて〈キーエナジー〉で踊っていた先輩は、あるとき僕に向かってこう言った。「かつて、うちらには世界市民だという自覚があった。この文化が世界を変えると思っていた。いまこの文化をカウンターだと思っているやつなんているんだろうか?」

 たしかにカウンターだと思っている人間は少ないだろう。雑誌『ele-king』の創刊からはや15年、テクノやレイヴはもはや珍しくも新しくもない。ある意味ではレジャーのひとつだろう。どの町にも箱やDJバーがある。15年前にはそんなこと想像できなかったはずだ。それを思えば、この文化の裾野は着実にひろがっている。

 音楽会社や雑誌がつぶれこの文化の先行きに不安を感じている人もいるだろう。が、それほど騒ぐことでもないようにも思う。社会がいま難しいのだ。ちなみに2008年の中小企業の倒産率は過去最大。アメリカやイギリスと同じ社会状況になってこそ、ようやくこの文化の本質が考えられるようになったとも言えるんじゃないか。あの夏は本当にクソったれだったのだと、骨身に沁みて感じる。

 そして、僕は思う。この文化はいったいどれほどの金のない若者を救ってきたのだろう。大切なのは歩みをやめないことじゃないか。手を変え品を変え、あれこれ考えることだ。ある人はパーティをオーガナイズし、ある人は店をはじめ、僕はDJをする。世界を回すことによってじょじょに世界が変わっていくんじゃないかと思っている。あと15年したらきっとわかるんじゃないかな。

文:メタル(2009年11月30日)

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