■「ビニール解体工場と瀬戸内オルタナティヴの発生」インターネットはおろか、瀬戸大橋も開通していなかった…..情報流刑地だったといっても過言ではない1980年代の香川県で、何故、あんなにも特異なPUNK/NWシーンが高松には存在したのか?
インターネットはおろか、瀬戸大橋も開通していなかった…..情報流刑地だったといっても過言ではない1980年代の香川県で、何故、あんなにも特異なPUNK/NWシーンが高松には存在したのか?現在進行形のPUNK/NWそしてオルタナティヴ・シーンを伝える「FOOL’s MATE」や「DOLL」や「宝島」は書店に並んでいても、高松市には輸入レコード屋もなかったし、NHKがインディーズブームを公共の電波で拡散しても(85「インディーズの襲来」)、四国に自主制作盤を扱うレコ屋は皆無であった。だから、だからこそ、情報に飢えていた僕たちは、先述の雑誌で手に入れた希少な情報を頼りに、フェリーで本州に渡ってレコードを漁った。そして香川に持ち帰ったそれらブツを、遣唐使時代の空海先輩のように、同じく音楽に飢えていた仲間にカセットテープでコピーして隣町まで拡散していたのだ!!!!!!! そのとき、僕は既に気づいていた...こうすれば自分自身が簡単にメディアになれるんだ、ということを….。
インディーズという言葉が生まれ、ポストパンクとしてダブやインダストリアルやハードコアパンクやゴスやポジティヴパンクが次々に台頭したあの時代、僕やその先人たるトレンドセッター達が本州から集めてきた音楽は、磁気テープにコピーされ、更に孫コピー、ひ孫コピー、ひひ孫コピー….と赤潮のように大量繁殖し、それらウィルスに犯されたやつらが躙り寄り、集結し、やがて高松市を中心とし、香川県に独自のPUNK/NWコミュニティーを形成した。まともなライヴハウスすら存在しなかった高松市で、表現の初期衝動に駆られた当時中高生だった我々は、営業時間外のディスコやダンスホールを借り切って、真昼間から蒼く混沌とした轟音を毎週毎週ブチまけていた!!!!!!!
当時のシーンの主導者は、数歳年上の先輩であった堀地浩氏である。氏のオーガナイズに我々中高生が共闘する形でコミュニティーは突然変異的に肥大化し、THE STALIN、ZOUO、MOBS、サディサッズ、町田町蔵と人民オリンピックショウ、そしてなんとカオスUK、ジョニー・サンダースといったアーティストが日本中、世界中から頻繁に高松に降臨し、南新町にある高松オリーヴホールというキャパ350人のフロアは、いつもイカ臭いガキどもですし詰めになっていた。厳しい青少年保護育成条例が機能する香川県で、中高生が演奏….?そこの良識者の方々、眉をしかめないで欲しい。ご心配なく…(笑)僕らのGIGは朝10時からオープンし、夜8時にはクローズしていたのである(笑)。そう、これがディスコやホールの営業時間外に、ニキビ面の青少年がミラーボールの元で鋭角に尖りまくっていた所以なのだ!!!!!! 今回のDOMMUNE SETOUCHIでは、HISTORY OF SETOUCHI ALTERNATIVE CULTURE(香川編1)「ビニール解体工場と瀬戸内オルタナティヴの発生」と題して、様々な重鎮ゲストと共に、局所的に隆盛を極めた80年代の讃岐PUNK/NWシーンの魑魅魍魎の歴史が37年の時を経て遂に紐解かれる!!!!!!
ゲストは、シーンの開祖であり、元OBSESSION、現MONDO DIAMONを率いる堀地浩氏、四国初のパンクバンドDESTROYを率い、その後THE MUTANT MONSTER BEACH PARTYや、MUDDY FRANKENSTEINなどのガレージバンドに在籍した大津伸一氏、そしてハードコア”ポルノ"バンド暴力大将を宇川と共に結成し、現在CONCEPTとして活動する讃岐オルタナシーンの守護神=詰沢脇市氏、更には80年代当時、SOME PRODUCTSというPUNK/NWジンを発行し、丸亀から香川のシーンを活性化させた、ex SOLID AIR、その後、APHEX TWINのリチャード・D・ジェームスに認められ、Rephlex Recordsよりデビュー、現在音楽レーベル件、カレー屋を運営する和泉希洋志氏と、現CONCEPT、ex SOLID AIRの宗田氏!そして司会は、ex 丸山ワクチン、ex 暴力大将、現DOMMUNEの宇川直宏でお送りする!!!!!!!!!
そして番組は1979年にまで遡る。東京・吉祥寺マイナーを中心に第五列(GESO氏とオニック氏が中心となり、非常階段結成以前のJOJO広重氏やウルトラビデのメンバー他も参加していたメールアートを中心としたノイズ、アヴァンギャルド、フリーミュージック・コレクティヴ)で活動していたDEKU氏が、同時期に地元・高松で流動的なメンバーとともに活動していたバンド、ビニール解体工場の膨大な足跡を辿るのである!!!!!!! 1981年、宇川直宏は中学校1年でビニール解体工場のカセットに出会い、そこから高校に入学するまでライヴに通いつめる。不定形の音楽、定まらぬ音源を標榜し活動したDEKU氏によるアバンギャルド・ユニット=ビニール解体工場。この存在を発生源として、香川のオルタナティヴカルチャーは生まれたのだ!!!!!
また伝説のアンダーグラウンド・コミュニティー=吉祥寺マイナー(1978年3月〜1980年9月)の佐藤隆史氏も香川県の出身である。氏は、マイナー解散後、ピナコテカレコードを立ち上げる!!!!!!! 白石民夫や、ガセネタ、そして灰野敬二がコンパイルされたV.A.『愛欲人民十字劇場』(乾燥うんこ付)、また灰野敬二の衝撃のデビューアルバム「わたしだけ?」、そしてあの伝説の山崎春美率いる「タコ」をリリースしたのもこの香川県出身の大先輩佐藤氏である。同郷のつながりもあってか、DEKU氏は当時唯一のヴァイナル音源として第五列、そしてDEKU氏本人のプロデュースによりピナコテカレコードからV.A.「なまこじょしこおせえ」(1982)をリリース!!DEKU、そしてビニール解体工場は、ライヴの度に音楽スタイルを変え、同じ曲をライヴで演奏することはなんと84年の解散まで一度もなかったのだ!!!!!!!!
そして、その後、DEKU氏は35年間、ビニール解体工場を封印する….しかし、何と2015年12月には宇川の熱烈なオファーによって、宇川がキュレーターを務めた「高松メディアアート祭」に出演、31年ぶりの演奏を披露した!!!!!!! そして約40年の時を経て、1980年前後に制作した音源を集めた2枚組アルバムがリリースされた。本作は宇川が監修し、1979年から1984年にかけて録音されたカセット75本分の音源500テイクから31曲を厳選した作品となっている。そしてなんと今回は、当時のビニ解を熟知する「月刊タウン情報かがわ」初代編集長で、『恐るべきさぬきうどん』シリーズによって讃岐うどんブームの火付け役を果たした、現・四国学院大学教授の田尾和俊氏がスペシャルゲストとして登壇する!!!!!!!
そう、機は十分….熟した。シーンの立役者は数十年ぶりに再会し、満を持して「ビニール解体工場」そして「瀬戸内オルタナティヴの発生」とは何だったのか?遠くなった記憶を辿って皆で紐解いていく….そして久々に中年、いや、初老に差し掛かった皆で音を出してみようではないか….。讃岐のPUNK/NWコミュニティーはなぜあんなにも拡張したのか?そして、高校生個人がどうしてメディアになれたのか?更にはオルタナティヴとは一体何だったのか?語り合いたいと思う。そう、僕はあれから37年間、手さぐりでオルタナティヴを探し続けてきた。そうして辿り着いたのが、オルタナティヴメディアとしてのDOMMUNEなのだ。今度は「高松」でも「香川」でも「四国」でも「瀬戸内」でもなく「日本」という隔離された島国の中で、世界を相手に僕は14歳の頃と全く同じことをやっているのだ!!!!!!!!!!「ビニール解体工場と瀬戸内オルタナティヴの発生」…..コミュニティ、コレクティヴ、そして共同体を形成する要素とその秘密が体験談と共に、いま、明かされる!!!!!!(宇川直宏) |